栗谷利夫著「夢現」

『MUGEN(夢現)』第63話  「-繋がる人間模様-1」

浩が開業早々仲間と一緒に立ち上げた「生活情報懇談会」の主なメンバーとは解散後もよく会っていた。ある時、濱高から「折角なので高校や大学の同級生を中心にコアメンバーで暑気払いでもどうだろう、年に一回夏に一緒に飲もう」と話しかけられて、浩は即刻賛同した。この会の幹事長の役目を言い出しっぺの濱高が担った。メンバーは、高校時代の同級生である宇都、福川、吉田、宮脇、大学時代の同級生である濱高、早田、清家、佐野、そして、少し年下の新谷、小島、鬼山と丁度ワンダースの異業種の程好い人数となった。

 浩は喜びのあまり、一人一人の思い出が浮かんできた。高校時代の浩はお寺の修行という名の仕事もあり、学業は見事に落ち零れた。この経験は後々弱者への対応が出来る人間への貴重な礎となった。早朝からの本堂の清掃と勤行、夜は壊れかけた50CCバイクで、この宗派特有の講組織で集まった人たちに対して先師の教えを教導した。月数回訪問の大牟田からの帰路は、何故かいつも真っ暗な田原坂付近でバイクが故障で止まり、何度もエンジンを復活させた。西南の役での死者が頼って来るのだろう、とも思った。途中途中には、あまりの寒さでバイクを止めては冷たくなった手足をバタつかせて血行をよくした。更に最も辛く感じたことは、毎夜三時間程度の睡眠しか取れないことによる学校での睡魔との戦いであった。毎日の授業が恰も拷問にあっているようであった。そして、見事なまでに成績が落ちゆく自分の姿、学校に行くのも疎ましく、お寺に入る前の輝かしい学生生活とは天と地であった。懊悩(おうのう)の日々、どうすることもできない環境に身の哀れみ、当時は耐えるしかなかった。

 このような浩を宇都は温かい眼差しで見てくれていて、お寺にもよく訪れてくれた。学殖豊かで辺幅(うわべ)を飾らぬことから生徒会長に選ばれ、生徒会活動や空手の部活から帰ったら夕食を済ませ、入浴後は夜遅くダラダラと勉強することなく早めに就寝し十分に睡眠をとった。朝四時から七時まで三時間を学校の予習にあて、授業中はその場で復習という勉強法であった。つまりここまでしか時間がないとの効率法であった。結果、見事現役で京都大学に合格した。浩はこのことを参考に、後々の仕事のやり方に生かす事が出来た。宇都は、弁護士開業以来、毎週土曜の午後は、空手で不登校をケアするスクールを今もなお続けている。

 福川は、高校時代いつもお寺に遊びに来ていた。浩に会いながらも目的は浩の姉に会いたがっていた様子であった。ミス女子大とも言われた姉、福川はませた高校生とも言えた。しかし東京の大学に入ってからは当時活発であった学生運動に傾注し、監獄(刑務所)にも入った。いつも笑顔で、会うと心が和んだ。両親は学校の先生で、浩の結婚した妻とも同じ職場であったのである。大手自動車会社の営業部勤務後に、講壇学者とは違いニュービジネスを立ち上げた。浩は、経済誌にこのことを大きく取り上げ、これからの女性の社会的進出が急ピッチに進む社会環境からビジネスとして成功すると発表。物の見事に的中し、浩も経済界では少しは名を馳せるようになってきた。福川は夜も遅く休日返上でよく働いた。努力は報われる事のロールモデルでもあった。

 吉田は、外交官として世界を駆け巡っていた。大きな事件も担当した。夏にこの会を開催するのでタイミング良く参加が出来た。そして退官後も各方面からの好ポストのオファーが多かったが、彼は自由人の道を選んだ。進んで人や企業との接触を行っていた。人と人、企業と企業、今までの多くの経験から特に海外へと繋ぐ事で活躍した。動きも早く、皆からのビジネス信頼は厚く、情報を鞄に持って歩く吉田の名前が定着していった。「いつもスマイル」の笑顔と包容力には、自然と人が集まって来た。あらゆる物事への架け橋の達人と言われるようになった。浩も吉田のお陰で多くの素敵な人と巡り合うことが出来、関与先も海外市場の道が拓かれて行く光景が嬉しかった。

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