栗谷利夫著「夢現」

『MUGEN(夢現)』第36話 看護婦被害事件~

この賭博事件もなかなか終わらないまま、今度は、病院で看護師が脅迫されているという情報が飛び込んできた。 元入院患者が、その看護師の点滴痕が、退院後の今になって大きく腫れあがっているが、なんとか内密に済ませてやるので会いにこいとのことだった。それも病院内ではなく、病院の近くのスーパーに来い、との威嚇的な内容であった。看護師は、不審感と恐怖心から看護部長に相談し、看護部長に経験豊富と思われている事務局長の浩に相談がやって来た。 浩にとってもこのような事件は初めてであり、戸惑ったものの、何事も経験だと考えて、当時の担当医師と看護部長からカルテなどを見ながら詳しく話を聞き、更に調査して、医療上の問題点は全く無いことを確認した。その上で、即座に親しい刑事部長に連絡を入れたところ、所管の警察署から刑事が飛んできてくれた。刑事と看護師との連携、当日現場での対応を慎重に練り当日を迎えた。 スーパーには買い物客に扮した刑事が控え、浩には五十メートルぐらい離れた場所で待機して欲しい、との指示を受けた。看護師も最初は怖がったが、すぐそばに刑事がいるので、少し安心してお店の中に入った。その指定の時間から数分が経った時、買物籠を持ったひとりの男が、スッと看護師に近づいてきた。男が場所を移動しようとしたその時、近くにいた刑事が即座に捕まえようとしたが、男はスルリと店から逃げ出して行った。学生時代陸上部にも所属していたことのある浩は猛ダッシュ、みるみる男に近づき、見事に男を捕らえ、駆けつけた刑事に引き渡すことができた。 ホッとした浩が店内へ戻ると、看護師は、床に座り込んでいた。恐怖のあまりに腰を抜かしてしまったようだった。お店の人が急いで椅子を持って来てくれ、その椅子にうずくまった。暫くして、おもむろに起き上がった看護師を抱えるようにして車に乗せて、アパート迄送った。着く頃には、顔色も良くなり、浩もホッとした。今までの緊張からか浩もどっと疲れが出て、車の中で暫く動けなかった。 このような事件が終わったかと思うと今度は、別の医療ミスではないか?との問題が浮かびあがってきた。浩にとっても、命に関係することは最優先課題であるので、この話が入ってきた瞬間、体が強張った。どのようなことなんだろうという不安の中で、理事長、執刀医、看護部長、オペ室長と浩の緊急会議が始まった。 カルテや画像を見た結果、客観的には医療ミスではないだろう、と思ったものの、人間味溢れる理事長の「病院の体裁を考えるのではなく、患者さんとご家族の身になって…」という一言に浩も熱くなり、「この交渉は、全面的に私にさせてください」と申し出た。「局長、ありがとう。でもこのことは、病院の最高責任者の私の責任であるので…」会議が終わるや否や理事長が先方宅に電話を入れられ、日曜日にとの約束となった。浩も即座に「同行させてください」と迫り、「ああ」と曖昧な返事ではあったが、早速あらゆる資料を揃えて執刀医も入れてその日、三人で訪問した。 理事長の発する言葉一つ一つが、浩は勉強になった。心から患者さんのことを思い、患者さんの側から見ての発言内容に、理事長の人間としての素晴らしさを、感じた。 これからの人生の生き方の明確な羅針盤を得た一瞬の場であった。

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