栗谷利夫著「夢現」

『MUGEN(夢現)』第28話 大学〜就職2~

「国家資格合格おめでとう!よく頑張ったね」いつもの苦虫を噛み潰したような所長とは別人のような笑顔満面、よほど嬉しかったのだろう。熊本では多くの合格者を輩出した伝統ある事務所ではあったが、ここ十年ほど合格者が無かったからでは、と浩は思った。喜びも束の間、「来年すぐに独立しなさい」畳み込むかのごとく矢のように放たれた急な言葉に浩は絶句した。折角大きな会社も担当し、多くの関係先の方々とも親しくし、多くを学ぶことが出来、生涯この事務所に仕えても良いのに、と思っていたが、ああ、所長には子供さんもいらっしゃるし、と思い当たった。複雑な気持ちで「はい、わかりました。ありがとうございます」と短く答えるのが精一杯であった。 さあ、これからどうしよう。関係先が困られるなあ。おそらく殆どの方々が自分についてくると言われることだろう。そのように言われるだけあり、日頃の浩の行動は、「お客様第一主義」を徹底した昼夜を問わない働きぶりであった。会計税務に限らずあらゆる相談にのっていて、いわば、何でも屋の便利屋の存在でもあった。その分、関係先の方から顧問料の引き上げの申し出が多かった。所謂高く良い仕事であった。 便利屋になる為の日頃の行動は凄まじかった。お客様のイベントのお手伝い、住宅メーカーには、営業代行、そして早朝勉強会、夜の会合、休日のセミナーや異業種交流会、さらにはボランティア、この行動のすべてが多くの人脈となって浩の人間力を大きく進化させていった。「浩さんって凄いね。絶対に『わかりません』や、『知りません』って言ったことないもんね。これからも永く私のところと関係していって頂戴ね」「はい、わかりました。でもこれから私が担当することはできません」「なんで?担当の方を決めるのは私たちなのよ。私は、あなたに担当して貰いたいのよ」「ありがとうございます。そうまで言って頂いて嬉しいです。でも、もし社員さんが独立するようになったとき、お客様を持っていかれたらいけないと思われませんか?お客様は、個人の所有ではなく、会社の最も大切な宝物だと思います」「・・・あっ、そうね、お客様は会社そのものなのよね。・・・わかったわ。新しい担当者になっても時々顔出してくれるわよね。約束できる?そのかわり誰か事業始めるときには、必ず紹介するわね。必ず!」「ありがとうございます。そう言って頂いて、・・・何かあればいつでも仰ってください。馳せ参じます」 そんな折、浩はちょうど三十になった。大学時代の先輩から銀行に勤務する知人の妹の紹介を受けた。何事にも旬があり、浩も今が旬と思い、結婚を決意した。教育系の大学を卒業し、公立の幼稚園勤務の、見た目とは違って薙刀二段のスポーツが得意な女性であった。 結婚式は、修行したお寺、お寺と言うより大寺院での仏式で厳かに執り行われた。お金もなかったので、狭い部屋で鮨詰めの披露宴、初夏ともあって、冷房もあまりきかず汗だらだらの披露宴であったが、お世話になっている人や友人の多くが心から祝ってくれた。そして、その席で、お寺の藤井さんから、「夜学に通いながら昼間は本の物販会社でコンピューターを扱っていた嘉吉君を紹介します」と言われた。早速嘉吉君と会ってみてびっくり、名高達郎そっくりのイケメン、バレーボールでは県代表とスポーツマンで爽やかな青年であった。即刻その場で採用を決定、いよいよ開業への第一号のスタッフが決まった。今思えば給料がいくらなど全く決まっていない状況であった。

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