バリから帰り、豊作や黒坂とはよく会議をした。地域活性化が議論のテーマとして多かった。浩は、「何事を成すにもその原点は教育」と語り続けた。
事務所も勤務前に毎日各種の勉強会が開催され、皆の目は輝いていた。この事もあり、事務所は着実に成長し、優秀な仲間が増えてきた。二、三日徹夜することはザラであった。
豊作が、ある企業が保有している五階建てのユニークなビルをほぼ家賃無しの状態で借り受けて来た。浩は豊作の人脈の凄さを感じた。入った途端に霊気を感じた。元僧侶ならではの浩である。一体二体、、、合計七体であった。「うーん、これにはエネルギーがいるなあ!」と思いながら、一体一体成仏する様を祈った。この五階もある部屋の三階を事務所にすることとなった。
浩の教育の思いと豊作の教育界の経験とが合致し「子育て新聞」を発刊することが決まった。毎月発刊ともなれば大変ではあるが、豊作の原稿作りには目の見張るものがあった。彼が地球塾を大きくしたことを、仕事の中で垣間見ることが出来た。幼稚園、保育園に無料配布ということで、収入は広告のみではあったが、浩が広告の大半を決めてきた。丁度収支トントンと言ったところで、所謂NPO的な仕事から、浩はそれで良いと考えた。経済雑誌の記者や幼稚園に勤務する人などがボランティアとして協力してくれた。スタッフの女性村田も休みを取ることなく働いた。子供たちへの思いが三人の共通の思いであった。幼稚園や保育園からの評判は頗る良く、感謝や御礼の手紙が殺到した。その手紙を見るたびに三人は喜びあったり、障がい児を抱えながらも懸命に生きる母からの手紙に、涙が溢れそうにもなった。
ある日夜、はっと気づけば浩一人であった。一緒にいる時は感じなかったものの、夜に一人となると流石にここは恐ろしくもなり、正に夜の夜、必死で祈り続けた。お陰様で六体はこの世から浄土の世界へと送り出せた。あと一体なかなかしぶとかった。この地に詳しい人に聞くと、以前はこの場所はお墓だったとのことで、お墓はお寺に移転されたということであった。「あ〜よくお弔いされていなかったのか?あるいはこの土地にどうしても残りたくて、残ったものの遺骨はここには無い状態なのか?」
怖いのを堪えながらも祈り続けた。
このような日々の中、事業家の豊作が三角西港の倉庫を改装して「オランダカフェ」をオープンした。彼には常に危険の魅力を持っていた。行動には必ず伴うものである。この地域は後々世界文化遺産になるような歴史ある場所である。明治・大正ロマンや歴史を感じるレトロな洋館の浦島屋、この「浦島屋」は、熊本県にゆかりのある文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の短編小説「夏の日の夢」に登場、旅行で立ち寄ったこの旅館の女将の美貌に惚れ込んだ八雲が、小説化した場所。その一帯ゾーンの中の明治二十年に建てられた土蔵造りの「旧三角海運倉庫」を活用して「オランダカフェ」は生まれた。重厚な梁や柱と白壁が作り出すシックな空間の広がり、目の前の海に小さなイルカが顔を出し、レトロな空間と気持ちのいい海の景色に包まれて、映画のロケーションにもなるほどの魅力ある場所であった。コンサートも幾度となく開催され、いつも満席になっていた。時には、あの歌謡界で大ヒットを飛ばした人物も登場するほどの活気を亭した。
子育て新聞もオランダカフェも約五年間の働きで終えることになるが、人生はその時その人その場のクロスは大切だと常々浩は考えていた。何も起こらなければゼロ、起こせば一人でもこのことにおける素晴らしいエネルギーその時に受けることとなる、AIのニューラルネットワークのシグモイド、ソフトマックス、tanh、ReLUなどの活性化関数が必要のこの考えであった。それから時を経て、浩の周りには、教育としての胎教教育や交流として場が生まれて来るのである。全てに繋がっている見えない糸を晩年になった時の浩は感じることとなる。