栗谷利夫著「夢現」

『MUGEN(夢現)』第30話 料理屋事件~

順調に関与先も増え、浩は月月火火水木金・・・のように、早朝、午前、午後、夜と、人の二倍は働いた。よく働くね!が会う人会う人の常套句になっていた。働くことが楽しくて楽しくて仕方がなかった。師走に入り、事務所を開設し一年を迎えようとする頃、関与先は百件になっていた。そのうちの一件に、天草の大きな料理屋さんがあった。浩にとってそこに監査に行くのは楽しみなことであった。何故ならば、お昼の食事はイキの良い魚料理をいつも腹いっぱい食べることができた。この料理屋への訪問は、お寺で生活していた頃の檀家の自宅へ訪問していた経験に似ており、嬉しかった。 ところがある日、ビックリというより危険な現場に遭遇したのである。訪問するや否や、ここの御主人と奥さんの罵り合う声が聞こえた。入ってみると、一メートル八十センチを超えるような大きな御主人に、奥さんが出刃包丁を向け追いかけていた。止めに入ろうとすると、その出刃包丁が手からすっぽりと抜けて、目の前に飛んで来た。浩は持ち前の運動神経の良さで間一髪包丁をかわすことが出来たが、壁掛けの鏡がガチャンと割れ、奥さんはその場に崩れ落ちた。すぐさま、奥さんを取り押さえ、「逃げて!」無意識に大きな声を発した。かなりの時間奥さんを抑えていたが、奥さんの友人が入って来て、泣きじゃくる奥さんを抱きしめた。ご主人が電話したようであった。 海の女は、怖いと聞いていたが、まざまざと見せつけられた。せっかく二人で頑張って稼いだお金を、ご主人が一晩の遊興に使ってしまったということであった。それから暫く経った朝、いつものように六時前に出勤すると、なんとこのご主人が事務所の前に立っていた。「どうしたんですか?朝早くから」と話しながら、事務所に案内するや否や、土下座して「先生、お金を貸してくれ。どうしてもお金がいるんだ」浩より一回り年上の大きな体の人が、まるで借りて来た猫のように大人しく丸くなっている姿には、堪らず「顔をあげてください。ご主人にそんな姿をされるようなことはありませんから・・・。」 その日は七時から、関与先の病院での会議があったので、財布に入っていた三万円を渡して帰って頂いた。お金のない自分は何も出来ないということを実感した。自分に対する情けなさが心の中に漂いながら病院へ向かった。その後、この夫婦の行方は分からなくなってしまった。数年後、この夫婦と親しかった植木町の島中さん宅に伺った時に「あいつたちは、離婚しましたよ。そしてあの男は、よからん道に入ったようですぞ。」 この島中さんは仕事柄、荒々しい感じの人であったが、年一度の決算申告の訪問は大変嬉しそうで、食べきれないほどのご馳走を準備してくれていた。数年後、持病が悪化し、あっという間に亡くなってしまった。 浩は、商売を継続して行う事の難しさを目の当たりにし、商売など事業をされている方への尊敬とともに、しっかりと励まし、応援出来る自分になりたいと思った。それからは関係先の経営者以上に、朝早くから夜遅くまで頑張り続けた。それは、企業を少しでも指導し、お金を頂く者の義務であると思った。税務会計に於ける仕事の質をより高いものにするのは当然のことであり、更にお客様の望んでいることを叶えようと、その家族の悩みも一緒に考えた。 お客様の子供さんの就職にも全力をあげた。まだまだ紹介での就職が強い時代であったので、人から人を繋いで最終的にその経営者まで辿り着く事が出来た。

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