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第7話 釜山〜大水害・記憶の始まり

 家族のような社員みんなとの別れは辛い中、日本への帰国は直ぐにはできなかった。終戦から三か月が経って、やっとできる状況になった。それまでは、敗戦ということもあり、辛い生活が続いたものの、これまでの人間関係から、食べることはなんとかできていた。誰それと、常に差し入れがあり、国は違っていても人間という絆は深かった。暑さがまだ厳しい中、釜山港には多くの行列でごった返していた。このような状況を見て誰しもが「帰れるのだろうか?」と危ぶむ光景でもあった。中には、栄養失調で、子どもがいつしか冷たい状況になって、母親の泣き声が大きく轟くことがあったり、疲労が溜まり誰も喋らないシーンと静まる時もあったり、落差のある異常な光景であった。祖母、父母と姉兄そして二歳になったばかりの姉の六人は、行列で並んだ四日目の朝、なんとか順番が回って船に押し込まれるかのように乗船することができた。二歳の恵美子はかなり体が衰弱していた。母は恵美子をいつも抱きかかえていた。船内は異常な臭気が漂い、精神的にもおかしくなった人が海に飛び込むことを幾度となく見ることになった。誰もそれを止める気力もなかった。
 

 浩が生まれる四年前の出来事である。
 やっとのおもいで、故郷に帰ることができたものの焦土と化した日本、誰しもどのようにこれからなっていくのか予想はつかなかった。熊本市内の上林町の六畳一間をようやく借ることができ六人がここに住むことになった。まずは水や食料を得ることであった。町は進駐軍による水や食料の配給を受ける人々の列が長く並んでいた。
 終戦からの四年間は、父も母も忘れることができない時期となった。終戦の翌年長女真喜子は名門高校の進学、三女美保子の誕生、長男も名門高校に進学、長女は生徒会長になるなど勢いが出てきた家庭も、終戦四年目に、長く病気がちであった六歳の次女恵美子は六月十日、ついに力尽きて、さらに七月には、祖母も他界と悲しみは続いた。このような中、長女も進学は断念し、東京の外国関係のオフィスに就職し、仕事の中で英語が堪能になった。長男は中退して飴工場で働くこととなった。このような中にも、未来へ生きようとする最後の力も働き、八月十一日に、浩が誕生したことは、亡くなった恵美子の生まれ変わりではないだろうかと家族に光を与えてくれた。貧しい中にも家族は助け合って何とか食べるだけの生活が出来るようになった頃の昭和二十八年六月二十六日、浩にとっては忘れられない日となった。
 長く続いた雨が夜ついに白川を氾濫、母が懐中電灯で足元の土間を照らすと水が急増、
「あっ、危ない」
と大声で叫ぶや否や、小学校に入ったばかりの姉と私の両手を千切れんばかりに引っ張り、水の中を、大股で上の禅寺に駆け上がった。間一髪、瞬く間に家はすっぽりと水の中に消えてしまったのである。朝目がさめると、多くの人たちがお寺の本堂でわいわいと話していた。浩は、本堂から家まで降りて歩いていると、ぬかるみにすっぽり入り、抜けられなくなって、わんわんと泣き出し、そこに一人の男性が
「こらっ、まだ外に出ると危ないたい」
と言って、抱え上げ、お寺まで運んでもらった、この断片的な情景が、浩にとっての生まれて初めての記憶の始まりであった。
この大水害で多くの人が亡くなった。

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