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第2話 大邱(てぐ)での展開1

 浩の父盛雄は、四国の徳島からこの熊本にわたってきた。先祖が船奉行であったらしく、財産家であった。母の綾子は壱岐出身で、かの有名な日本の経済を大きく成長させた男と曾孫どうしでもあった。明治生まれとしては珍しい、女専(今の大学)を卒業、そのような二人の結婚式は、当時町を賑わすほど盛大なものであった。披露宴には五百人を超えたもので、浩はその写真を見る度に、今の我家の姿からはとても想像がつかないものであったが、両親との会話の中に、その片鱗をよく感じていた。 両親は、大きな夢を描き、朝鮮に渡った。日本の勢いは当時とまることなく、世界からの注目の的でもあった。 

 浩は兄慎一郎からその様子のことを聞く事ができた。家族が向かったのは、今の韓国の東南部の内陸にある大邱(てぐ)という大きな都市であった。大きな商いを成すのは、このあたりが最も良いとの判断であった。それは、首都であれば、世界で戦争が起こった場合には、その戦火に巻き込まれる危険性が高いからということであった。父は、中国の諸子百家やマキャヴェッリ君子論等、多くの研究の中から、当時として経営哲学を確りと持っていた。そのことからも、十年たらずという短い期間に、社員千名を有する大きな企業群に成長させた。特に母は教育に熱心なことから、自宅には多くの書生たちがいた。彼らは、浩の両親を自分たちの父母のように慕っていた。そのぐらい両親はわが子と同じ愛情を注いでいた。

 「世の中がよき成長をするには、まずは教育が一番大切であり、それも実際の経済を学ぶ事が最高の教育である」と口癖のように話していた。書生たちにも確りとした教育プログラムを組み入れ、一緒に寝泊まりをして、仕事の技術とともに人間性を高める教育も同時に行っていた。当時としては稀有なやり方で、周囲の人たちは到底理解できる事ではなかった。「事業は、大いに利益をあげる必要がある。値決めは、私自身が行う。そうしないと、全体が見えてない人が行うと、悪かろ安かろで、企業は成長していかない」と語るとともに、壁に「商い道」大きく貼ってもあった。

 仕事も多角的な展開を進んで行っていた。最初の事業は、なんといっても食から始まった。味噌醤油、人間生きる上での最も大切な物、特に日本人はお米と味噌汁を毎朝頂く他に殆ど何もなく、この二つだけを常食としていたからであり、その製法技術は高いものであり、その技術を伝達したい思いから日本の技術導入の工場を建設した。さらに、韓国の食材の良いものを見つけ出し、時には山奥や海辺に幾度となく足を運んでいた。かの有名な日本を代表する経済人とも貿易を重ねていった。 

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